交差

人には人の世界観があって
その中で毎日を生きていて
かくいう私もそうで
なんだかんだ私は私が正しいと思って生きている
自信を持つということは良いことだと思うし
ぶれない心も素晴らしいものだと思う
ただ盲信して傲慢になってはいけない
それだけ

以前は世界観が合わない相手に対して
この人嫌い、とか
この人変な人、とか
意味がわからない!で突っぱねてしまっていた
嫌悪感すら抱いていたかもしれない
そしてこれも鏡の法則の話になるのだけれど
私が”受け入れない”という態度を取った人には
私も受け入れてもらうことはできない
私が”受け入れる”気持ちになれば
相手も受け入れてくれるかもしれない

受け入れるというのは、肯定するとか認めるという意味ではなくて
尊重して尊敬しようという意味合い

相手の世界観を尊重すること
そこに自分が合わせる必要はない
尊敬することによって相手を蔑みの気持ちで見ることはなくなる
そうすると相手も私を蔑んではこない
競争がなくなる
一本の綱を誰が一番早く登るかではなく
平面をそれぞれのペースで歩いていこう
地球は丸い
自分を横切る人もいれば、前から向かってくる人もいる
少し前を歩いていたかと思えばだんだん右側に離れていく人もいる
みんな同じ方向を進んではいない
それでいいじゃない

正義じゃなく自信を持ちたい

みんな最近鼻歌歌った?

私は歌ってないなあ〜。
昔は歌ってた気するんだけどなあ。
鼻歌にとどまらず普通に歌ってたかもしれんけど
いつからか口ずさまなくなったなって。

 

実家にいたときはよくおばあちゃんが鼻歌歌ってて
私も調子がいいと歌ったりしてたなあ。
いつから歌わなくなったかなって考えたときに、
一人暮らしし始めてからかな、と思った。
なんでか今の家では歌とか歌わないし、感情の起伏が少ないきがする。
実家に帰るとなんだか体が軽くなって(今の家が重いとかではないけど)
無駄に踊ったりハミングしたりしている気がする
何が違うんだろう

 

家の広さかな?
実家は一軒家だから広いし、廊下もあって部屋数もある。
自分のテリトリーみたいなものが戸建て全体に広がって、開放的になるのかな。
そう考えると今のテリトリーはかなり狭い。
都心の一人暮らしだからね。

 

それとも田舎だからかな?
目の前は田んぼで、二階建て以上の建物はなくて、
普通に立ってる目線で青空が広がっていて、地平線が見えるくらい(これは大袈裟)
昨日鬼太郎の映画見てきてさ、気が付いたんだけど、
映画見終わったあとめっちゃ目のピント合わせが難しかったんよ。
ドライアイかな、とか思ったけど、ドライアイはドライアイなんだけど、
長時間遠くを見ることって最近してないなって気づいたんだよね。
よく考えたら、映画館のスクリーンって遠いもんね。
それを2時間見てたら、手元にピント合わせるのに少し時間かかって、
老いなのか現代社会に飲み込まれてるのか、そりゃあ目悪くなるわな。
近くにいろんなものがあるせいで、どことなく閉塞感を感じていたのかもしれない。

 

でもこのどちらも、捉え方次第。
東京だって全く空が見えないわけじゃないし、緑が無いわけじゃない。
部屋だってベランダ付きの日当たりのいい部屋だ。
極端な話、お城に住んでいた人が私の実家に住んだら閉塞感を感じるんだろう。
上を見ればキリがないから、今自分が掴み取れているものをちゃんと感じて、
その中で鼻歌を歌ってごきげんに生きていきたいなと思った。

長所の見つけ方

みんな自分の長所とか得意なことってどうやって見つけてるの?
私は私の得意なことがなんなのか、いまいちよく分かってないんだよね。

 

当たり前だけど私は私しか知らないから、
私にできることは、当たり前のことでしょと思ってしまう。
でも今まで生きてきて人と付き合っていく中で、
当たり前ではないのかもしれないと教えてくれる方もたくさんいた。
私はあまり長い間定職に就くことが少なく、数年単位で職場を変えてきた。
(これが良いこと悪いことは置いておいて)
そのおかげで沢山の方と関わることができて、とても信頼できる大好きな方たいに出会うことができてとても幸せで、
そんな方達が恐れ多くも褒めてくれることもあって。
私は私が当たり前で、なんでできないの?くらいに思っていた時期もあったのに。

 

自分のことはよく見えない。
おへそは見えても鏡がなけ瞼は見えない。
近いものほど自分で見ることができない。
だから鏡である他人・相手が沢山のことを教えてくれる。
それに気付けたのは本当に最近で、受け入れ始めたのも最近で。
信じて入るし疑っているわけではないんだけど、なかなか飲み込めないでいるのも事実で。
もっともっと自分を信じて、誇りを持っていきたいなって思う。
本当に周りにいてくれる人が素晴らしくて。
そんな方たちが私と関わってくれることに、本当に感謝している。

 

私は人間関係に恵まれているし、沢山のことを教えてもらって、今の私がいれる。
そこは間違いなく私の長所だね。

Homework(課題の分離)

自分と相手を切り離してして考えれていないと
たびたび相手の問題を引き取ってしまうとこがある。
そしてあたかも自分の課題かのように錯覚して文句を言う。
相手がやってくれない、って。
それって誰の課題?
誰が行動すべきものなの?

おそらく説明で一番わかりやすいのは親子を例に出すことだと思うけれど、
私は子供がいないから、一番身近な仕事を例に出してみる。
一時期私は仕事に不満を持っていて、
こんなに頑張っているのに評価されない、自分ばかり大変な作業をしている!
とぶーぶー文句を言っている時があった。

私は頭の回転が早くて、作業が早い。
は?って思われたかもしれないけど、これは才能とかで言っているんじゃなくて、
興味があるものや時間を優先した結果得た特技。
謎解きが好きで何か答えを見つけることが楽しく感じるから、頭で考えることが好き。
だから頭の回転が早いと言ってもらえるようになった、けど実際はクイズゲームしてるだけ。
作業が早いのも、早く終わらせれば自由時間ができるから。
コーヒー買いに行ってもいいし、タバコ吸いに行ってもいいし、ニュースサイト見てもいい。
(仕事中だろ!ってお叱りは一旦・・・)
だから全集中でエクセル作業なんかはやってた。
元々数字に弱くないという強みはあったかもしれない、これは才能というか産まれながらの個性かもしれない。
だから、人に頼むより自分でやっちゃったほうが早い。
依頼の指示を出さなくていい分、楽でもある。
その瞬間は短納期になって良い事かもしれないけど、じゃあその作業ずっと私がやれるのかって話になる。

なんで他の人はやってくれないの?
いつも私ばっかり作業してるじゃん。
仕事を押し付けられている気がする。
いやいや、自分が招いた結果ではないか。

勝手に相手から奪っておいて、自分の手が埋まったら大変だと文句を言って、なんて自分勝手で傲慢な行動をしていたのだろうと思う。
相手から押し付けられたものでもなければ、むしろいつも感謝してもらっていたかもしれないのに。

手当たりしだい、相手の課題を奪わない。
相手からしても、達成感を奪われてすごく迷惑かもしれない。
奪うのではなく、サポートの体制を取る。
そうすることで相手は課題に取り組めるようになる。
同時に、相手から奪わずサポートや見守る行動をすることが、私の課題。
相手の課題を奪っただけではなく、自分の課題を放棄していたことに気付き、ちゃんと自分の課題をこなそうという考えに切り替わった。
管理職だとか取引先との納期だとか、いろんな問題はあるから、結局はどこかで自分が引き取ることになるのかもしれない。
だけど、基本姿勢は同じで、サポートという心を忘れないことだと思う。

相手の課題を引き取って、引き取ったことを忘れて、
さも自分が持っていた課題だったかのような錯覚をしてしまう。
そういう時ってだいたい、イライラしていたり愚痴っぽかったり自信が持てなかったりするんじゃないかと思う。
何かしらのサインは出てくるはずだから、一旦手を止めて冷静になって、考えてみよう。
これって誰の課題だっけ?

他人は自分を映す鏡

他人は自分を映す鏡だって、よく言われてるしよく聞けど、
どういうことなのかいまいち分かっていなかった。
妙にみんな納得してるけど、はて?何がいいたいんだ?みたいな。
実は最近少し分かってきて。
少しだけね。
なんとなくこういうことかなというのが私の中で繋がってきた。

一言で言うと「自分の中に無い価値観は感じることができない」
例えば、目の前に肌の色が違う人がいたとして、私は何にも思わない。
嫌悪感を抱く人や理不尽感を抱く人もいるけど、
小さな日本という島国の限られた地域で育った私には全く湧かない感情。
だからそれは、相手が嫌悪感を与えてきているんじゃない。
相手が嫌悪感を与えてきてるのなら、私も嫌な気持ちになるはずじゃない。
あくまで自分の中にある価値観や文化がそう感じさせているということ。
(例えが失礼だったら申し訳ない。)

私が嫌悪感を感じるのは、時間を奪ってくる人。
時間を守らない人とか、無駄な作業をさせる人とか、許容量を超える任務を担ってしまう人とか。
私は人の時間を奪うことはとても失礼な事だと考えている。
それがハッと言語化できたのが、ディズニーに行った時だった。
今のディズニーにはプレミアアクセスという制度があって、追加料金を払えば優先的にアトラクションに乗れるというもの。
若い頃はお金が無いから(今もないけど)時間を使って解決させていたけれど、歳をとるといかんせん時間が使えない。
忙しいという意味だけじゃなくて、長時間並ぶのが辛い。体力が続かない。
プレミアアクセス対象じゃないアトラクションに90分くらいだったかな?並んで乗ったときに、ハッと気付けた。
時間をお金で買わせてもらえるなんて、なんてありがたいんだと。
私は時間というものに価値を感じていることに気付けた。
だからその価値を蔑ろにされると、とても嫌な気持ちになる。

だけど、相手は時間を奪ってやろうと思って接してきているわけではない。
あくまで、その人の個性や特徴のひとつなだけ。
私の中に”時間を奪わせない”という思想があるから、反感を感じているということ。
何事も自分の中にある専用の物差しで測っているだけ。
その物差しは人によって全然違って、お金を使うなら時間を使うという物差しの人もいる。
私も何年か前はその物差しを持っていたし、
ということは、物差しは一生を通して同じということはない。
歳をとることだったり、環境の変化で変わり得ることが十二分にある。
物差しが変わったかどうかは、他人が教えてくれる。

これが、他人は自分を映す鏡なのだと。
今の私はそう解釈している。

裏の感情

支配の裏には恐れがある。
攻撃の裏には悲しみがある。

攻撃的な人っているでしょう。
理不尽か論理的かは関係なくて、ともかく人を攻撃する人。
直面するととても嫌な気持ちになる。
だけどその怒ってる人、寂しいとか怖いって気持ちを隠してるんだよ。
別にだから優しくしてあげようって話じゃない。
あー恐れてるんだなー、とか、
心の中では寂しくてシクシク泣いてるんだなー、って、
冷静になって考えてみると、間に受けて取り合わなくても良くなるよってお話。

怒鳴ってる人とか不機嫌な人って怖くない?
私は怖いんだよね。
機嫌とって空気をよくしなきゃとか、大声出されたくないから謝らなきゃとか。
攻撃性をそのままモロに受け取っちゃって萎縮してた。
だけど裏側を考えるようになってからは、一瞬はびっくりして萎縮しちゃうかもしれないけど、
あ、私とは無関係じゃん。とか、
自分の立場を守ろうと恐れ慄いてるだけじゃん。って思えるようになって、
関わらないという選択肢を取ることができるようになった。

支配しようとする人もそう。
一体感を持って「こうするだろう」「こうするべきと」思っていた相手が予想外の行動をとることで、
びっくりして自分の価値が危ぶまれるのではないかと恐怖して、支配しようとするようになる。
いかにも相手に価値がないような言い振りで捲し立てるが、本当は自分の価値がなくなることを恐れている。
だから真に受けて気持ちを落とす必要はない。
評価批判されているように感じるかもしれないけど、言葉のマジックに惑わされないで、裏の感情を考えてみよう。

どう対応していったらいいのか。

大切な人なんだったら、相手に寄り添って安心させてあげよう。
それは言葉ででも行動ででも、あなたのことが大好きだよって。
でもこれにはどうしても限度がある。
所詮相手の問題で、こっちにはどうしようもないことだから。
伝わらない場合は迷わず離れよう。
DVやパワハラなどの攻撃性を受け入れる必要はない。
選択権はつねに自分にあることを覚えておいて。
視野が狭くなっているときは、同じように怯えている時かもしれない。

望んだことをどうやっても叶えられない時代もあったという話

徳川の時代まで遡ると、ご先祖は4000人ほどになるのだそう。

そんなに!と思ったのと同時に、

私は私だった人の遺伝子が入っているのではないか、とふと思った。

4000人のご先祖、江戸時代以前にはもっともっと多くのご先祖の生があって今の私がある。

輪廻転生というのは(諸説あるだろうが)血縁限定では無いと思うし、国が違う場合だってあるだろう。

だけど何故か、4000人の中に私がいた気がしてならない。

その私の血肉を受け継ぎ受け継がれ、私を今生かしている。

なんかそれってロマンじゃない?

私はとてもわくわくして心強い、最強のバックボーンな気がするんだけど。

前世療法だとか退行睡眠だとか、何も受けたことがない私の勝手な予想だけど。

この直感が大事だと思っていて、とてもしっくりしている気分が正解なんだと信じてる。

 

私だった私はどんな生活でしたか?

今の私は毎日温かいお風呂に入れているし、日本国内どこへでも旅行へ行けるよ。

今は空を飛ぶ移動手段もあってね、海も簡単に超えられるようになったんだ。

あなたが望んだことを、私は叶えられているかな。

おかげさまで、命の危機が少ない、とても幸せな世界で生活できているよ。

今だってコーヒー片手にイヤホン付けて背後も気にせず呑気にカタカタ打っている。

あなたが必死に生き抜いた身体を、ありがたくいただくね。